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Vol.009 エス・アイ・ピー株式会社 取締役会長 齋藤 篤第3話 ベンチャーキャピタル史を歩む
コラム(3) パーソナル・データ(3)
JAFCO1号投資事業組合
 私は野村時代に海外にファンドを作った経験などから、日本で同じようなファンドを作るならヨーロッパ型の組合方式だろうというイメージを持っていました。しかし実際に作るとなると細かい詰めも必要になります。そこで今度は私がLPS(投資事業有限責任組合契約法に基づく組合)モデルの草創期であった米国のベンチャーキャピタルを調査するために出かけることになったのです。協力してくれたのが野村証券とつきあいのあったペイーン・ウエバー証券の子会社、アンパーサント・ベンチャーキャピタルでした。ファンドのGPであるウォルター・アイクマン氏からは、本来なら教えてもらえない契約内容なども詳しく聞き出すことができました。
  日本に戻ってからは、法的な面では弁護士の松本啓二氏に協力を仰ぎ、国税庁と税法上の取り扱いについて協議をし、また信託法の第一人者であった四宮和夫教授には投資事業組合の設立趣意書を添削していただくなど様々な方に協力を仰ぎました。こうして1982年4月、ついに日本のベンチャーキャピタルの基本的なビジネスモデルの第1号・JAFCO1号投資事業組合が生み出されたのです。このベンチャーキャピタルは民法に基づく任意組合であり、米国のLPSに準じたものでした。

日本電産への投資から学んだもの
 ファンドはできたものの日本の投資家の反応はさっぱりでした。そこで海外の投資家にも話をしようと、当時野村證券から出向していた経理部長の朝比奈孝治さんと一緒になって、外国銀行の日本支店を通じて出資をお願いしてまわりました。幸いフランスのロスチャイルドが最初に加入してくれ、続けてヨーロッパやロンドンのマーチャントバンクが何社か投資してくれることが決まりました。彼らは単に投資するだけではなく、ハンズオンなどのやり方にも様々な注文や意見をくれました。
  私たちの最初の意気込みは「成長初期の急成長が期待される会社を相手に、ハンズオンによって成長を促進し付加価値をつけていく。それによってファンドの運用成績を高める」というものでした。志は高かったのですが、実際にはハンズオンを行う人材の不足、あるいは投資インフラの違いなど様々な壁にぶつかり、なかなか顧客の要望に応えることができず歯がゆい思いもしました。このため実際には人材を育てながらベンチャーへの投資を行うという戦略でやっていかざるをえなかったのです。
  JAFCO時代に投資を行った企業のひとつに日本電産があります。当時の日本電産は社員わずか20人ほどの町工場でした。しかし社長の永守(重信)さんは今後はエレクトロニクスの時代だと信じていた。その信念を持って小型モーターに特化し20億円の売上げを、あっという間に米国、ドイツなどに支店を作り、現在では5,000億円を超えるまでに引き上げてしまいました。極端なことを言うようですが、ベンチャーキャピタルにとっては、こうした会社がひとつあれば、残りの5つの会社がつぶれても十分に利益が上がると体で覚えることになったのは、この日本電産への投資を経験してからでした。




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