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Front Interview
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Vol.010 株式会社ネットエイジグループ 代表取締役CEO / ネットエイジキャピタルパートナーズ株式会社 代表取締役社長  小池聡第2話 起業精神一直線
コラム(2) パーソナル・データ(2)
鬼十訓で新天地へ
 iSiDというのは、電通にあったIT関連の部局がGEと組んで分離独立した会社でした。電通というのはおもしろい会社で、ほとんど個人商店の集まりのようなものでした。外から見ると広告を売っているように見えるのですが、実は企画とか提案とか目に見えないものをお金に換えるのがビジネスの基本です。その中でもiSiDは新しい会社ということもあって、「何をやっても良い」「新人でも自分で考えて仕事をしろ」という気風が社内に強くありました。
  電通には中興の祖である、吉田秀雄さんの作った社訓「鬼十則」というものがあります。有名な「仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない」「取組んだら放すな、殺されても放すな」といったものです。iSiDにも、そういった雰囲気があふれていたわけです。若い僕でも自由にやらせてもらえました。何か売るものがあってそれを売るのではなく、新しいアイデアを提案してそれをクライアントに認めてもらい、それをビジネスに結びつけていくという仕事は、まさに自分にぴったりの仕事でした。
  僕自身は、いずれは起業しようと考えていましたので、iSiDへの就職はそのための勉強のつもりだったのですが、ことのほか仕事にのめり込み気がつくと10年近くも過ぎていたのです。そして、その頃から、そろそろ新しいことに挑戦したいという思いが芽生え始めてきたのです。

バブル崩壊を乗り越えて
 iSiDはGEとの合弁事業でしたから、米国あるいはGE本社とのやりとりも数多くこなさなければなりませんでした。今でこそ電子メールというのは誰でも普通に使っていますが、電子メールを他に先駆けて使っていたのがGEでした。当時のGEは自社で衛星回線などを使ってネットワークを構築し、世界中に点在する社員とのやりとりに電子メールを活用していたのです。こうして1983年頃から海外と頻繁に電子メールでやりとりしたり、海外出張にも出かけていましたので、僕自身、いつの間にか英語を身につけるようになりました。
  そうこうしているうちに、海外で現地の人たちと仕事をしてみたいと思うようになったのです。そこで海外駐在の希望を出しました。海外駐在は狭き門でしたが、幸いなことに1991年、31歳でニューヨーク勤務の夢が叶うことになりました。当時、日本ではバブルが最高潮に達し弾ける寸前のときでした。ところが逆に米国は景気が最悪の頃でした。海外研修を経て1992年の正式赴任後、日本では本格的にバブル崩壊が始まりましたから、日本が最悪の時代には米国にいたことになります。今振り返ってみると1980年代のバブル最盛期に日本で仕事をし、1990年代、米国経済が復活を始める頃に米国に異動したのですから大変運が良かったということになります。
  さて、米国に駐在してしばらくすると、現地の日本企業はバブル崩壊の余波で撤退を始めました。もちろん僕の勤めていたiSiDの米国現地法人、iSi電通アメリカも例外ではありませんでした。社長や上司が日本に帰国していきましたが交代の社長は送られず日本の本社の専務が社長兼務となりました。その専務から副社長に任命されました。社長は日本にいるわけですから実質的に社長の役目を仰せつかったと同じことになります。
(12月20日更新 第3話「波乱の船出 」へつづく)  




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