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Front Interview
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Vol.028 ウォーターグループ代表 坂井直樹第1話 巡礼
コラム(1) パーソナル・データ(1)
日本は重力の重い国
 久しぶりに日本に戻って感じたことは、東京は「重力の重い国」「外に出にくいしがらみの国」ということでした。その1つが言葉です。英語圏に対して、アジアではなく日本語圏があるわけです。サンフランシスコ時代の友人は中米のコスタリカに住んだり、南アフリカで半年暮らしたり、うらやましいほど自由です。僕もふつうに英語が話せますけれど、それでも長時間英語圏にいると面倒くさくなってくる。重力のひとつは言葉ですね。たとえば、トヨタが世界で1位の自動車会社になったといっても、本当の意味でグローバルではないでしょ。今でも日本は世界の中で日本語圏という大きな村であり、日本の企業文化がそのいい例だと思います。
 1968年にスタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮って「スペース・エイジ・デザイン」が流行したのですが、その当時からエコロジーに対する問題意識やテーマは叫ばれていました。しかし、世界的な運動ではあったけれど、あくまでも学生や芸術思想を持った人々が言っているだけで、企業を巻き込むところまではいきませんでした。企業は「生産性を上げて儲かればいいから、うちは知りません」と。それが今はどこの企業も地球環境にやさしい、エコと協調しましょうと社会全体を巻き込んでいます。テーマ自体は変わっていないけれど、当時とはその有り様がまったく違ってきています。
 自動車にしても1973年に排ガス規制が出てきて、CO2削減の問題を最初に考えたマスキー法という法律が制定されています。これらは一例ですが、このように現代社会が抱えている課題は、その答案は別として、38年前にすでに世の中にだいたい提出されていたことばかりのように感じます。

アントレプレナーの服
 僕が帰国した当時の原宿・表参道の道路には、まだセンターラインがなくて広々していて、喫茶店もセントラルアパートの「レオン」1件だけでした。目ぼしいものといったら千疋屋と菊池武夫さんが作ったビギというブティックくらい。要はすごい田舎で、かつ新宿でも渋谷でもなく、非常に中途半端な場所という感じでした。当時は東京というと銀座か新宿であって、僕らは渋谷や池袋を典型的な意味での東京とは呼んでいませんでした。銀座のみゆき通りをJUNやVANの紙袋を抱えて歩くのが流行した時代ですから。
 その原宿で1973年に『ヘルプ』というブティックを立ち上げ、ウォータースタジオを設立しました。伊藤病院の向かいの空間を、コムデギャルソンの川久保玲さんをはじめ4℃、ドゥ・ファミリーなど10軒のオーナーで借りてシェアをしました。当時、4〜5人の小規模でマンションの一角で商売できるところから「マンション・ブティック」とか「マンション・メーカー」と呼ばれていました。今で言うベンチャーですね。
 まだファッションの世界には、デザイン性に優れていてある程度の量産品であるアパレルという概念がなく、君島一郎さんなどのオートクチュールの世界が主流のころです。で、そういう高級服を買えない人は吊るしの服を着ていました。そんな時代に渋谷の西武デパートでは、カプセルコーナー(一種のインキュベーターとしてのアパレルの店)の展開を始めています。三宅一生さん、山本寛斎さん、菊池武夫さんといった1960代後半に活躍するデザイナーたちの大半の商品を置いたのです。売れるかどうかわからない彼らアントレプレナーの服を扱ったところが西武のすごさです。結果的にはユニークな衣服はかなり売れました。

(6月11日更新 第2話「革命」へつづく)



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