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Front Interview
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Vol.029 株式会社アールテック・ウエノ取締役 岩崎俊男第2話 銀行
コラム(2) パーソナル・データ(2)
三菱の人間
 当時の学園紛争というのは、自由になろうとしていた時代というか、みんな純粋に自由になることを考えていました。そうした中で就職の時期を迎え、自分の将来を考えた時に、どうしても「三菱」というものからは逃れられませんでした。といいますか、やはりそこに行くべきだろうと、そう決断を下したのです。
 自分が三菱の人間であるということは、紛れもない事実ですし、そのことは自分の中にしっかりと刻印されていた、ということでしょう。本家筋ではありませんが、岩崎の人間である以上、「三菱」の役に立たなければならない、そういう意識はあったと思います。彌太郎には殿様の気風があって側室に違和感がない時代で係累の人数は大変に多かった一方、彌之助の方はそういった背景がありませんでしたし、特に男子が少なかったので、余計に「三菱」の人間という意識が強くなったのかもしれません。子どもの頃から「三菱」の人間であるという意識はありましたが、やはり強く意識したのは大学生の頃でしょうか。
 学園紛争の中で、抑圧された人々という話を聞く一方で、自分の出自を考えた時に、やはり三菱に身を置くべきだろうというのは、その頃に明確になったと思います。もちろん友人と共有できる話ではないので、自分で考え、自分なりに答えを導き出して、三菱銀行へ進むことに決めました。

カリフォルニアの銀行修業
 当時は、今のように選別が厳しいわけではなく、東大で三菱銀行を志望した人は、ほとんど全員が入行できたと思います。そういう時代でした。1970年に入行し、最初は大手町支店に配属されました。何もすることがなくて、単行本を出して読んでいたら、次長さんから「いくらなんでも、それはしない方がいいぞ」といわれました。その方は石坂泰彦さんといって、第一生命や東芝の社長を経て、経団連会長を4期務められた石坂泰三さんの息子さんでした。入行して3〜4年目の時に、三菱銀行がカリフォルニアに地場の銀行をつくったのですが、その銀行の創業頭取が石坂さんで、彼の引きで、そこに赴任しました。
 1973年から1978年までカリフォルニアにいましたが、最初に担当したのは、現地での新規取引の営業で、例えば、貿易金融でいえば、L/C(Letter of Credit:輸入者の輸入代金支払に関して、輸入者の取引銀行が保証した信用状)を輸出業者に届ける中で、地場企業との取引を開拓していきました。アメリカのローカル企業が対象で、当時、営業をしていて感じたのは、彼らが私たちに期待しているのは、日本の情報もさることながら、主はアジアの情報なのですね。当時から決定的に日本に欠けていたのは、「欧米から見た場合、日本はアジアのゲートウェイである」という視点です。これは未だに日本人は理解していないですね。現場でアジアのことを尋ねられても、日本人は何も答えられないわけですから。30年前の話ですが、当時からそれは実感していました。
 そういう現場を経て、企画部門に配属され、支店をどこに開いたらいいか、予算をどうするか、という仕事を通じて、石坂さんにはいろいろなことを教わりました。なかなか侠気のある人でしたし、常にマネジメントということを考えている方でした。今でも覚えていますが、ある年度の計画を立てたら、赤字になったのです。企画担当者としては当然、コストを下げなければなりませんから、「従業員給与を再考した方がいいのではありませんか」と石坂さんに進言すると、「君、経営というのは、三位一体だ」というんですね。「株主と従業員とお客様、この三位一体のバランスをとれないようでは、企画部とはいえないぞ」と。100%子会社で、銀行の1支店と変わらない立場なのに、親銀行のことを「株主」と表現する。そのこともすごいと思いましたが、30数年前に、そういう視点を持たれていたということは、今でも鮮明に記憶に残っています。




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