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Vol.030 シブサワ・アンド・カンパニー株式会社代表取締役 渋澤健第1話 アイデンティティ
コラム(1) パーソナル・データ(1)
日本再訪
 私が生まれたのは神奈川県の逗子で、幼稚園に上がる少し前に、東京の渋谷近辺に引越し、私立の幼稚園、公立の小学校に通いました。父は旧東京銀行に勤めていましたが、もともとの入行目的が米国で仕事をしたいということだったこともあり、私が小学校2年の時に家族で渡米することになりました。父は今も米国で暮らしており、妹二人も米国に居を構え、上の妹は選挙で投票したいために市民権を獲得しました。
 小学校2年生から大学卒業までずっと米国で育ったことから、自分はもう日本で生活する縁がないと思っていましたし、このままずっと米国で暮らそうと思っていました。テキサス大学の工学部に進学後、大学4年生の時に、いわゆる卒業旅行のような感じで米国人の友人と日本を訪れ、そこで初めて東京以外の地方の街を旅行しました。そこで、「日本って、面白いな」と感じたのです。
 地域ごとに特色があって、食べ物も美味しいし、もしかすると日本というのは奥が深い国なのかもしれないと感じ、もう少し日本のことを知りたいと思うようになりました。その旅がきっかけとなり、大学を卒業後、今でいえばフリーターのような感覚で、日本にふらっと来て、叔父の財団で働くことになりました。

日本人なのか、米国人なのか
 1980年代に日本に帰国した当時は、「Japan as No.1」という時代でした。お世話になった財団法人「日本国際交流センター」では、日本と海外の交流を促すことを目的としたNGO・NPOで、そこで非営利の仕事に携わりました。“世界における日本”ということを考える場で、社会人としてのイロハを教わりました。米国と日本のギャップに戸惑いながらも、日本社会へ復帰するためのリハビリという意味で、私自身のその後にも大きく影響した2年間だったと思います。ただ気分的には、そこにずっと勤めるという気持ちはありませんでした。まだ自分が何をやりたいのかわからない状態でしたし、いろいろなことを体験するという意味で、日本に来たことも、その選択肢の一つだったと思います。
 ティーンエイジャーの頃から、自分が日本人なのか、米国人なのかというアイデンティティの壁に突き当たり、ずっと迷いを抱えていました。海外で暮らしていると常に日本、あるいは日本人とはこういうものだ、ということを説明する場面に遭遇するので、潜在的に日本に対する意識を強く持ちます。でも、日本にいると、「日本とアメリカとどちらが好きですが」と不思議そうに聞かれるので、財団で働いている間も自分が何者かということは常に自問自答していました。「日本しか知らない日本人になりたいのか」といえば、Noでしたし、逆に「米国しか知らない米国人になりたいのか」というと、それもNoでした。そう考えていくと、今の自分の状態というのがいちばん良いなと感じられて、自分の役割は、日本と米国の間にある隙間を埋めるような仕事にあるのだろうと、そんな漠然とした思いに至りました。
 渋沢栄一も「論語とそろばん」というかけ離れたものを資するべきだと説いていましたが、私自身も日本と海外の違いがあるとすれば、それをつなげるのが役目ではないかと考えていました。財団で携わったのも、日本と海外の橋渡しをする仕事でしたが、母方の叔父の財団ということもあり、別の道を探るために、何となくビジネススクールに進学したところ、そこで偶然、金融の世界に出会うことになったのです。




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