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Vol.013 株式会社リヴァンプ 代表パートナー 澤田貴司第1話 あこがれに導かれ
コラム(1) パーソナル・データ(1)
野生の野球少年

 私が生まれたのは石川県の吉野谷村というところです。今この村は合併で白山市になってしまいましたが、たいへんな田舎です。同級生は小学校時代で12人、中学校に行っても26人しかいませんでした。もちろん塾などありません。学校から帰る途中に川に飛び込んで泳いだり、柿をもいで食べたり、冬はスキーをやるといったように、子供の頃は自然の中で、のびのびと過ごしていました。
  私は1957(昭和32)年生まれ。子供の頃から当時のプロ野球のヒーロー、長嶋茂雄の大ファンでした。当時吉野谷村ではテレビのチャンネルは2つか3つしかありません。ラジオもちゃんと入る放送局が少なかったですね。そのテレビをつけたり、ラジオをつけたりすると、いつも長嶋がいるわけです。そして自然と長嶋のファンになり、野球を始めました。運動神経はけっこういいほうだったので村の中学野球大会に小学生の頃から出場していました。
  両親はともに学校の先生で、姉と妹の3人兄弟です。父親は勉強しろとはほとんど言わなかったですね。教師の家庭としては珍しいぐらいに放任主義だったのではないでしょうか。普段から「好きにやりなさい」という感じでした。しかし躾やマナーの面では厳しかったですね。とくに父には、生意気な口をきいたり、人の悪口を言ったり、あるいはちゃんと挨拶ができなかったりするとひどく叱られました。


挫折と決意と
 吉野谷村には高校がありませんから金沢の桜丘高校に進学しました。桜丘高校というのは高校野球の強豪校で、何度も甲子園に出場しています。私自身は長嶋の後継者を自認していたわけですから、当然のようにすぐに野球部に入りました。甲子園に出ようと思ったのです。
  しかし高校でプレーしてみると、自分のレベルなどたいしたことはないということを嫌というほど思い知らされました。甲子園の常連校ですから練習も半端ではなかった。バットも持たせてくれない、ボールも持たせてくれない。それで腹筋など、死ぬのではないかと思うほどやらされました。きつくて、しんどくなって、わずか半年ほどで勉強ができないという嘘の理由で野球部を退部してしまったのです。自分にとって初めてのギブアップでした。
  その後、スキー部に入部したのですが、こちらのほうも中途半端に終わってしまいました。結局、野球をやめた自分をごまかしていたのだと思います。その頃決めました。決めたことは絶対最後までやり抜く、中途半端では絶対やめないと。

気合と根性

  高校時代から一人で生活をしていましたが、悪い遊びに染まるというようなことはなかったですね。しかし、勉強の仕方がよくわからなくて、第一志望の大学には受かりませんでした。それで上智大学の理工学部に進学することになったのです。
  上智大学に入学して早々、たまたまアメリカンフットボール部の先輩にごちそうになったばかりに、入部せざるをえなくなってしまいました。しかしアメフトをやり始めると、これがおもしろくて夢中になりました。
  高校時代の反省がありましたから、とにかくアメフトは絶対やめない、全力投球するんだと考えてやりました。最後にはキャプテンになって、弱かったチームを率いて関東リーグで頑張ることもできました。この経験を通して、高校で失った自信を取り戻せたと思います。それとこの頃から”気合いと根性”と常に口にするようになっていたと思います。





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