2008.12.24update 起業家・ベンチャーキャピタル・投資家を繋ぐコミュニティ・マガジン

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Front Interview
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Vol.029 株式会社アールテック・ウエノ取締役 岩崎俊男第1話 愛語
コラム(1) パーソナル・データ(1)
岩崎の家に生まれて
 私は子どもの頃から、祖父に対して強い尊敬の念を抱いていました。すでに他界していたので、直接的な交流はありませんでしたが、母・温子からいろいろ話を聞いていたので、その影響が大きいと思います。祖父・岩崎俊彌は、岩崎彌之助(三菱財閥2代目・日本銀行第4代総裁)の次男として1881年1月28日に生まれました。長男が岩崎小彌太(三菱財閥4代当主・三菱合資会社社長)で、俊彌は次男坊でしたから、非常に独立心が強く、何でも自分でやろうという気持ちが強かったと聞いています。
 俊彌は、1900年にイギリスのUniversity Collage of London(ロンドン大学)に留学しています。応用化学を修めますが、日本にガラス産業がないということから、それを自分で興そうと決意を固め、帰国しました。最初は工芸品ガラス、化粧水を入れるような小さな瓶などのカットガラスを製造している大阪の会社とジョイントベンチャーを作り、1907年に旭硝子株式会社を創業しまして、板ガラスの工場を建設しています。日本で初めて国産化に成功して、窓ガラスの製造をしていました。26歳という若さでしたが、陰で三菱本社(三菱合資会社)の番頭さんが支えてくれていたようです。独立心の強い社風は祖父の死後も維持されていましたが、戦時中に旭硝子と日本化成工業との合併で三菱化成工業が発足して三菱財閥の傘下に入ります。当時経営を引き継いでいた方々は、決して本意ではなく内心忸怩たるものがあったようです。晩年は、曹洞宗に傾倒し、指導をされた原田祖岳という僧侶から、禅宗と向き合う祖父の様子は耳にしていますが、そういう話の蓄積が祖父に対する想いとして醸成されていったことはあると思います。

衆生をいとおしむ
 曹洞宗ということでいえば、祖父には八重子という長女がおりまして、26歳で夭折したのですが、曹洞宗の禅の修業で極めて高い悟りに到達したと聞いております。彼女が亡くなる数ヵ月前から、原田老師と往復文書を交わしていて、そこに「見牛(けんぎゅう)」という言葉が記されています。牛の姿に本来の自分を見るという悟りが見えた状態を表すのですが、「最後に悟りをようやく開くことができ、欣喜雀躍としております。しかし私のいのちは…」と書かれた手紙が原田老師のもとに届いたそうです。私自身は宗教家ではありませんが、そういう禅宗の考え方みたいなものが身体のどこかに染み込んでいて、私の根底をなしているような気がします。
 曹洞宗で読まれる「修證義(しゅしょうぎ)」という御経の中に「生(しょう)を明(あき)らめ、死を明らむるは、佛家一大事の因縁なり」という一節があります。わが家の仏事の時には、必ず読む一節です。この御経には「愛語(あいご)」という「衆生をいとおしむ」という意味の言葉が出てくるのですが、これを会社のことで例えると、「従業員のことを考える」「公(パブリック)を考える」ということになります。戦後、占領軍による財閥解体に際して、小彌太は最後まで抵抗し、「自分たちは決して間違ったことをしたわけではない。岩崎家はどうなってもいい。ただ、1万3千人の一般株主のことをどう考えるのだ。」と占領軍に対して直訴したといいます。小彌太の細君から直接聞きましたし、母もよく話していました。そういう潔さに、私自身、心に響きました。自分のことよりも他の人ことを第一にという考え方は、素晴らしいと思います。
 会社の経営というものを考えるようになってからは、余計にそれを実感します。「岩崎家はどうなってもいい」という潔さは、自分が間違ったことをしていないという確信を持って会社経営に臨んできた証であり、事業を興していくことが、この国の民のためになるということを信じて邁進したわけです。国民に対して貢献してきたという意識、自負があったからこそ、三菱本社の自発的解体を迫られていく最中、小彌太は身をもった抵抗を続け、その途中でまさに憤死に近い状態で倒れてしまったのです。その重さたるや、ものすごいものがあったのだと思います。




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