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Vol.029 株式会社アールテック・ウエノ取締役 岩崎俊男第1話 愛語
コラム(1) パーソナル・データ(1)
白い壁に向かって
 私は小学校低学年の頃、「落ち着きがない」という理由で、よく母から座禅を組めといわれました。確かにおっちょこちょいで、幼稚園時代には、無謀というか、自転車にも乗れないのに、坂の上から走り降りてドブに落ちたこともありました。そんなことでしたから、母にはよく「白い壁に向かって座って10数えなさい」といわれて、 「うるさいな」と思いながらも座っていたものでした。決して厳しい母ではありませんでしたが、私は3人兄姉の末っ子で長男でしたし、うちの系統に男の子が少なかったことで期待されていたとは思います。もちろん、それを表立って言われた記憶はありませんが、どこかでそういう重圧を感じていたと思います。
 生まれたのは鎌倉ですが、小学校1年の時に、昔の高樹町、今の南青山7丁目に移って、青南小学校、青山中学校、日比谷高校、東大というコースを進みました。のほほんとした性格で、母が私の進路をどうするかで、ある方に相談したら、絶対に公立にしなさい、私立には入れない方がいいといわれ、小学校から中学・高校と、すべて地元の学校に進みました。当時、青山中学である程度の成績を取っていれば、日比谷高校にいくものだという感じでしたし、日比谷高校に行けば、次は何となく東大に行くもの、という雰囲気だったので、ほとんど何の疑いもなく敷かれたレールを進みました。
 父の寿男はエンジニアで、養子として苦労したこともあって、とても忍耐強い人でした。祖父も技術者でしたから、技術者としての誇りは強かったと思います。そういう環境にいながら、なぜ私のような銀行員ができてしまったのかは不思議ですが、高校時代に、物理で0点を採ってしまったことが文系に進んだ遠因のように思います。文系なら法律か経済に進みたいと思っていましたが、自分の志向として何かに縛られるのがあまり好きではなかったので、経済学部に進みました。

ボブ・ディランと出会う
 特に何の疑問ももたずに東大へ進みましたが、そうした自分の生き方に疑問を感じるきっかけとなったのが、東大紛争でした。それまで「マイノリティーの搾取」などという言葉は、あまり真剣に考えたことはありませんでしたが、当時、1960年代後半の学生運動の盛り上がりの中で、否応なく意識するようになりました。特に何かすごい時代の波をくぐって来たというわけではありませんが、「大学をどう考えるか」をテーマとした学生会には参加していました。東大紛争というのは、ある意味、「大学とは何か」「大学生とは何か」というテーマがシンボリックに顕れたものだと思いますが、あの時代を経験した人間というのは、一歩引いて考える、主流派にべったり寄り添わない、という共通した意識を抱えているような気がします。
 当時、自由人に対する憧れというのもあって、私にとっては、ボブ・ディランが英雄でした。ピート・シガー、ジョーン・バエズなど、第一世代のフォークミュージシャンの次の世代ですが、既製のカントリーミュージックの世界に初めてドラマ性のある詞を持ち込み、率直な歌詞で歌った人です。ディランとの出会いは、大学に入ってからで、いわば、私の青春時代の歌手です。洋楽を聴き始めたのは姉たちの影響で、エルビス・プレスリー、ポール・アンカなどを、中学の頃から聴いていました。高校時代は、世の中がビートルズ一色でしたが、私の場合、カルチャーとしてのビートルズショックというのはあまりなかったですね。ジョン・レノンという流れで考えると、ディランは近いとは思いますが、当時はディランの方が、メッセージとして強いものを感じました。口をついて出る曲は、「ミスター・タンブリンマン」。もちろん「Blowin' in the Wind(風に吹かれて)」は、当時の彼のヒットソングでしたし、よく聴いていました。
 あの頃は常に心に音楽がありましたね。今もボブ・ディランは聴きますが、少々、反骨的なところとか、メッセージ性だとか、まだ心の根っこの部分に残っているのでしょうね。当時、ベトナム戦争を機に、アメリカが内省の時代に入り、そこからカウンターカルチャーが立ち上がっていきますが、無垢だった故に、そういうものの洗礼を受けたのだと思います。

(7月9日更新 第2話「銀行」へつづく)



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