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Front Interview
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Vol.021 株式会社アドウェイズ 代表取締役社長CEO 岡村陽久第1話 まっすぐに生きる
コラム(1) パーソナル・データ(1)
わんぱく番長

 小学校3年まで埼玉の大宮(現さいたま市)で育ちました。大宮とはいっても市街地からはずっと外れたところで、とても自然に恵まれた場所でした。学校が終わると毎日友達と「今日は何をやろうか」と話あって、近所の山で秘密基地を作ったり、タケノコを抜いたり、BB弾を撃ちあったりして遊んでいました。
 小学校4年からは東京の谷中に移り住みました。祖父が病気で入院したため、祖母の面倒を見るため私達の家族が一緒に住むことにしたのでした。家は日暮里駅のすぐ近くです。東京といってもこのあたりは緑の木々がたくさんありました。当時はファミコンが流行っていましたが、私は家の中にいるよりは外で遊ぶ方が好きでしたから、やはり友達を引き連れては谷中墓地の近くの森に秘密基地を作って遊んでいました。遊びに行く場所や何をするかはたいがい私が率先して決めていました。自他共に認める「番長」でした。
 小学校5年の時には「わんぱく相撲」に参加し、地元である台東区の大会を勝ち抜き、都の大会も制して全国大会に出場したのです。私の体格は今と同じで、身長は高いのですが痩せていました。全国大会の会場に行ってみると、集まっているのは小学生なのに明日からでも相撲部屋に入れるのではないかという体格の子供ばかりでした。1回戦はシードされて不戦勝だったのですが、2回戦では体重80キロを越える選手と対戦しアッという間に負けてしまいました。


将来は社長になります

 小学校の卒業文集には「将来は社長になります」という夢を書きました。もちろん社長がどんなものかを具体的に知っていたわけではありません。テレビに出てくる社長がお金持ちで格好良いと思ったから書いたまでです。当時は会社を興すことなど知るよしもありません。
 進学したのは台東区立上野中学校です。中学というものは近隣のいくつかの小学校から生徒が集まってきます。上野中学の中では私の出身の谷中小学校は最大派閥でした。中学に入学すると、まず各小学校でリーダー格だった生徒達が誰がいちばん強いのか派閥争いを繰り広げました。当然自分が番長になれると思っていたのですが、残念ながら力およばずという結果になりました。
 中学でも授業が終わるとすぐに教室から飛び出していく生徒でした。活動範囲も小学校時代より広がって、たとえば上野公園へ行ってスケボーをしたり、日暮里駅前にあるマクドナルド前に集まって友達と長時間話していたものです。埼玉時代は少年野球チームに入っていたのですが、東京に出てきてからは柔道を始めました。学校が終わった後、小学校の体育館や警察署の道場で練習をしました。柔道は中学校から高校を中退するまで続けました。


進学などしなくても良い

 勉強は、ほとんどできなかったです。と言うか興味がなかったのです。でも、数学と英語、それと体育は得意でした。テストの2週間前になるとまったく遊びに行かずに、とにかく教科書を開いてどこがテストに出るかを考え、そこを集中して勉強しました。まぐれもあるのでしょうが、テストの結果はまずまずでした。
 高校に進学する時は真剣に悩みました。高校に行って何をすれば良いのかがわからなかったのです。父からは、まさか現在のアドウェイズの中国での事業展開を予知していたわけではないでしょうが、「高校に行くより、これから発展する中国に行ってビジネスを勉強した方が、おまえにとっては役に立つ」と言われました。父に進学などしなくても良いといわれたものですから、私はそれに反発して進学することにしました。
 父は何かにつけて「ダメ」というのが口癖でした。自転車を買って欲しいと言ったときにも、まずは「ダメ」。そこで私が「どうしたら買ってくれるの」と聞き返すと、「大宮から谷中まで自転車で行って帰ってこれたら買ってやる」といわれたので、実際に家の自転車で往復して買ってもらいました。それ以来、父に「よし」と言わせるためには「どうしたらいいのか」を考えるようになりました。






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