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Vol.023 市民バンク代表 片岡勝第1話 自由闊達
コラム(1) パーソナル・データ(1)
悪ガキ世にはばかる
 僕は、東京・杉並の善福寺で生まれ育ちました。子供時代の成績表には、人を冷やかしてばかりで困るとよく書かれていました。また、授業中にそっと抜け出して外で遊んでいて、他のクラスの先生に見つかって立たされたとか、教室の戸を完全にクギで打ち付けて先生が入れないようにしたりとか、まあ、とにかく悪ガキ、という感じでした。
 高校は都立の大泉高校で、当時、早稲田に100名・慶應に50名が合格するような、普通に勉強していれば大学に受かる、そういう学校でした。兄二人も慶應だったので、大学を選択するという感じでもなく、自分も慶應へ行くのだろうな、くらいの意識でした。のんびりとしたいい高校で、あまり勉強しませんでした。校内放送で「片岡くん、先生が呼んでいます」とよく呼び出されました。職員室に行ってみると、「おう、将棋やろう」とさそわれて、「一応受験生なんですけれども」といいながら、先生の相手をしていました。それから、よく学校をサボって、友人と石神井公園でこっそりボートをただ乗りしていたのですが、ある時、体育の先生が通りかかって、「俺にも乗せろ」と言われて、「先生、これ、お金、払ってないよ」といったら、払ってくれました。
 いつだったか、学校を進学中心にしようとした校長が赴任してきてスポーツや文化活動を縮小しようとした時も、生徒みんなで反対運動をしました。今もいろいろ自由勝手にしていますが、当時から制約というのが嫌いで、それを感じたり受けたりすることがないように、場を変えて行こうということだったと思います。

闘争から銀行へ
 慶應義塾大学を卒業する頃はちょうど大学闘争の時代。僕はノンセクトで活動していましたが、成績の方は上々で、3年間でA評価が40以上ありました。卒業が迫ってくると、大学に残って大学変革をするか、社会に出るかを自らに問いました。そういう時代でした。みんな、ことに臨むにあたって自分の中で、何らかの問いかけをしたものです。
 僕は自宅のあった西荻の駅から中央線に乗って、新宿で山手線に乗り換えて大学のある田町まで通っていましたが、ある日、寝過ごしてしまって、気づいたら東京駅でした。ちょうど就職活動の時期だったので、 「そういえば、みんな会社廻りをやっているな」と思い、丸の内側の北口に降りました。最初に目に入ったのが、当時の国鉄本社。就職するにはどうもビルが暗い感じだなと思って、真っ直ぐ正面を見たら、皇居。ここは採用してくれないだろうし、と左を見たら、丸ビル。当時ここはいまと違って雑居ビルでしたから、看板もでていませんでした。さらに見渡してみると、いちばん最初に目に入った看板が三菱信託銀行でした。
 よしここに行ってみるか、と覗いてみました。どこでも入れるな、という変な自信があって、面接したら、すぐに役員面接で入行が決まりました。筆記試験はありませんでした。まあ、試験を受けていたら、名前だけ書いて出てくるというような態度の悪いことをしでかしたでしょうから、受からなかったかもしれません。




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